浮気

私は今まで浮気をしませんでした。
ごめんなさい。
東京出張中にほんの出来心で・・・。
でも本当に愛してしまったのです。
3月9日から日本橋三越本店での万年筆祭りに出店していたときのこと、私たちの目の前のブースに彼女がいました。
そして彼女のことを褒めちぎる2人の男性もいました。
枻出版社『趣味の文具箱』の清水編集長と日興エボナイト製造所の遠藤社長の2人です。
彼らは彼女を手に入れない奴は馬鹿だと言わんばかりに彼女を絶賛するのです。
そのとき私は神戸へ帰る時間にもしまだ彼女がいたら告白し、神戸へ連れて帰ろうと決心していました。
そしてとうとうその時間、3月11日16時になりました。
おそるおそる向かいのブースに行くと彼女は私を待つように佇んでいました。
私に躊躇などあるはずもなく、彼女を抱き寄せ神戸へ一緒に帰ろうと告げました。
彼女は拒むことなく私に身を寄せました。
今は常に私の傍で私を見守ってくれています。
彼女の名は「天女」です。
  
  
私は今まで万年筆を神戸のPen and message.さんとナガサワ文具センターさんでしか買ったことがありません。
でも今回浮気してしまい、東京で買ってきてしまいました。
許してください、神戸の万年筆関係の皆様。
どうしても彼女の魅力に抗えなかったのです。
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エボナイト、いいっすよ!

今日は親父の命日。
あれから7年。
昨年には愛妻がそっちへ行ったから喜んでることだろう。
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死んだらどうなるんだろうと思ってたけど、今年の初夢で謎が解けた。
おふくろ曰く
「痛さも辛さも、怖さも悲しさも、腹立たしさも情けなさも感じなくなってよかった。でも楽しさも美味しさも、嬉しさもありがたさも感じなくなった。間違いなく生きてる方が幸せ。」
ということ。
そりゃそうやな、マイナスから逃れてプラスだけ手に入れることはないわな。
生きてる価値をあらためて教わった。
夢やけど。
言わぬが花、負けるが勝ち、過ぎたるは及ばざるが如し、短気は損気・・・。
知ってる。
でも違うものはやっぱり違うから認める訳にはいかない、という頑固さは親父に似てきたようだ。
それで一時的に損することがあっても長期的に考えればいいんだと思う。
違うものは違うと言い続けるから冤罪に巻き込まれることもないだろうし。
もちろん自分の誤りを認めた場合はすぐに謝ることもできる。
末っ子なので。
俺も昭和42年生まれ、俺も寂しい、でも俺は大丈夫。
何のこと書いてるか来年分かるだろうか?
7年前、俺が一人三宮でフラフラ飲んでる時に親父は逝ってしまった。
今日もフラフラ飲むとするか。

2016スタート(restart)

代表取締役に就任して11年が過ぎました。
その間に新会社を作って中国に現地法人を立ち上げたり、当社にとっては大規模な設備の更新を行ったり、世代交代を推し進め新しい事業に着手したりとそれなりにやってきたと思っています。
そのようにできたのも突然の代表取締役就任後、今日まで自社のことのみを考えていればいい状況にあったからです。
しかしながら私も人生の後半にあり、後継者を得たことでもありますので、そろそろ業界全体の発展に寄与したいと思うようになりました。
今まで私を育ててくれた業界を魅力的なものにし、その将来を明るいものにするためにまずは兵庫県印刷工業組合に再加入し活動に力を尽くしたいと考えています。
またモノ作りへのこだわりや強い向上心を持つ若者を育てるために、キャリア教育に尽力したいとも考えています。
少しでも広くお役に立とうと思い始めたのです。
私がこんなことを考えるなんて・・・。
はい、あなたと同じくらい私自身が不思議に思っています。
でも私もあと20年くらいはこの業界で食っていこうと思っていますので、業界の発展は不可欠なのです。
って結局自分のことを考えているところが私らしいですね。
Mastery for Service
まだまだだな・・・。
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2015年最終日に

今年も本当に色々ありました。
これがなきゃダメとかこれがあっちゃダメと思いながら新年を迎えるわけではありませんが、それにしても今年も本当に色々ありました。
皆さんにとってこの一年はいかがだったでしょうか?
今年3名の社員が当社を卒業し、新しい環境へ旅立って行きました。
別れでした。
今年7名の社員を当社に迎えることができました。
出会いでした。
正直な気持ちを言うと7回の出会いの喜びより3回の別れの悲しさの方が大きいのです。
でも別れの悲しみを恐れて出会いを拒むことは決してしません。
今年はおふくろとの別れがありました。
辛く悲しいものでした。
今でも心が傷ついていることを感じます。
そんな時私を家族のように思っていると言ってくれる社員、そのように接してくれる社員たちに救われました。
感謝しかありません。
私を必要としてくれる人がいる限り、私は立ち続けることができます。
必要とされる人間であり続けられるように努力したいと思います。
来年も当社は「親切」を掲げて歩んでいきます。
来年も私は「是々非々」を掲げて歩んでいきます。
来年もどうぞよろしくお願いいたします。
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完璧

おふくろが死んで3ヶ月以上が経つ。
山本はるみは昭和11(1936)年2月19日に兵庫県加東郡社町に生まれた。
神戸から疎開してきた武部誠一と同級生になった。
誠一は中学卒業前にクラスの女子生徒全員に手紙を書いた。
返事を書いた二人のうちの一人がはるみだった。
中学を卒業した誠一は社高校から立命館大学に進み、卒業後大和出版印刷株式会社に就職した。
一方、はるみは中学卒業後看護学校へ進み神戸市立中央市民病院で看護婦として勤務した。
その頃の患者さん家族と今でも交流があるのだから、きっと献身的に看護する人だったのだろう。
結婚を機に退職し神戸市灘区で3男をもうける。
「俺の前に流産したことがあるらしい。子供は3人までと決めていたらしいから、その子が生まれていたらお前は生まれてなかったな!」
と笑いながら三男の私に言う長兄は無邪気が過ぎる人だった。
昭和51(1976)年に須磨区高倉台に移り住み、その後の約40年間を過ごす。
その間3人の息子を育て、社長夫人としても内助の功を果たす。
三男が社会に出てからは年に数回夫婦で旅行に行く等ようやく家事のみの生活から解放された。
しかしそれも数年で終わりを告げ、誠一の右足に前立腺がんの胸椎転移による麻痺が出る。
外出が億劫になる誠一は自宅に籠もる生活になり、はるみの手を煩わせた。
そんな平成16(2004)年5月2日長男の伸也が急死する。
その後軽い脳梗塞や肺炎を起こし度々入院した誠一を献身的に看病し、平成21(2009)年2月9日に自宅でたった一人で看取る。
その年の秋には孫を、4年後には次男の哲也を失うも、常に気丈に振る舞い取り乱すことは一切なかった。
未亡人となったはるみは旧知の友人との時間と、孫たちの成長を見ることだけを楽しみにしていた。
平成27(2015)年の春に肺気腫で入院し、3ヶ月後の7月24日多くの人が待つあっちへ逝った。
人のおかんの話なんかどうでもええわと思われるだろうけど、自伝を書く人でもなかったので、書いておかないとあの人が生きた証って残せないんじゃないかと思って書いてみた。
もちろんこんなに短くまとめても残っているうちには入らないと思うが、書かないでおくことはできなかった。
多くの家族を失って一番辛く思うことは、人が一人死んでも世の中は普通に動き続けるということ。
あんなに大切な人がこの世からいなくなったのに、何事もなかったかのように時間は流れ、人は生活していく。
当たり前のことであることは分かっているが辛い。
本当は先月5日の四十九日の翌日は大雨で、当日はさわやかな日だったこともおふくろの力によるものだという非科学的な話。
先日社町の山本家の墓に報告に行った時に偶然会ったおふくろのいとこに事情を説明した際、「はるみちゃんらしい最後やね」と言われたこと。
僕が知るおふくろの素晴らしいところをいっぱい書きたいねんけど、ええ歳こいてマザコン丸出しにするのもなんだし・・・。
あ、もうおらへんから元マザコンか。
通夜の前の晩、おふくろと二人になった。
おふくろの亡骸の横で一晩を過ごした。
おふくろの顔を何度も撫でた。
物心ついてからおふくろの顔を初めて触った。
おふくろに何度も礼を言った。
何度も謝った。
何について謝ったのかは知らないが何度も謝った。
その何倍も礼を言った。
「俺が言うとは思えないセリフ、陳腐過ぎる言い回しやけど、俺、ほんまにあなたの息子で良かったと思ってるわ。自慢の息子ではないことは知ってるけど、俺はあなたの息子であることを誇りに思ってるで。」
と実際に声に出してしまった。
ほんまに声に出した。
こんなセリフ生きている人が周りにいたら言われへん。
泣き崩れることはあまりできなかったけど、ほんまにこんなに悲しいことはなかったんや。
こんなに悲しいことはなかった。
僕はめちゃくちゃ悲しかったんやで。
何か言うて欲しい訳じゃないけど、おらんのはやっぱり寂しい。
忘れることで人間は生きていけるかもしれない。
でも忘れたくないこともある。
自分がその人を忘れることが怖いのではなく、身近な人が亡くなって最も悲しいことは、その人が周りから忘れられ何事もなかったように時間が過ぎていくこと。
僕はこの11年間ずっとそう思っている。
どうして乗り越えた?って聞かれても、乗り越えた記憶もない。
誠一の葬儀での会葬御礼で、はるみが「子煩悩な人でした」と言った時、全くピンとこなかったが、先日実家で見つかったこれを見て納得した。
確かに子煩悩な人だった。
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おふくろも。
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四十九日では僕を見守ってくれていたおふくろの長男と孫も一緒に納骨した。
一つの区切りがついた。
この世では4人家族になってから2年半で僕が生まれて5人になったが、あの世ではもっと先にしなければ。
たくさんの土産話を持って再会せねば。
僕は一度もおふくろを嫌いになったことがない。
思春期・反抗期に「ばばぁ」とか「うるさいんじゃ!」とか言ったことはあると思うけど。
大人になってからももし痴呆が進んでしまったり、介護が大変な生活になってしまっていたら、そのことに疲れおふくろのことを嫌いになる瞬間があったかもしれない。
そしてその自分に対して嫌悪感、罪悪感を持ち続けたに違いない。
そんなことあの人は僕にはさせなかった。
そんな気持ちをあの人は僕には持たせなかった。
僕はおふくろを一瞬たりとも嫌いになったことがない。
僕はほんの一瞬たりともおふくろを嫌いになったことがない。
少し時間ができたので、久しぶりに垂れ流してやった。
失礼。

三越で会いましょ♪

明日14日(水)から20日(火)まで日本橋の三越本店本館5階ステーショナリー売り場の一角で神戸派計画商品を販売させていただきます。
私は17日(土)から20日(火)まで売り場に立たせていただく予定です。
多くの皆様のご来店をお待ちしております。
「東京に来た時は一杯飲ろうぜ!」と声を掛けてくださった東京の皆さん。
この日程で上京するのですが、慣れない立ち仕事でフラフラになっていることが容易に想像できます。
「あの野郎、東京に来てるのに連絡よこさなかったな!」とお気を悪くなさいませんようお願いいたします。
体調とタイミングが合えば一杯行きたいですが・・・。
顔を見に日本橋まで来てね!ほんでいっぱい買ってね!

勧善懲悪

テレビCMって世相を反映しているとも言われていますが、最近弁護士事務所・法律事務所のCMが多いと感じます。
少し(かなり?)前はやたらと消費者金融会社のCMが多かったと思いますが、今はすっかり少なくなりました。
その後で過払い金請求なんちゃらのCMが多くなったのが一連の流れだとすれば、考えさせられてしまいますね。
労務問題に強い・離婚訴訟に強い・債務整理に強い・知的財産に強いとか得意分野で稼がないと弁護士先生たちも大変なんでしょうか。
どうも司法試験に問題漏洩があったようですから弁護士先生も大量に送り出されてさらに競争が激化していくのでしょうね。
大変ですね。
いずれにせよ私のような法律に明るくない人間を理不尽な不利益から守ってくれるのがプロの弁護士であり、善良なる弱者から金をむしり取ろうとする者が「弁護士」を名乗らないでもらいたいものです。
万が一そんな類の弁護士がいたとしても、そこへ丸投げするような愚かな者もいないと信じたいと思います。
もちろん私が知っている弁護士にはそんな人はおらず、法的弱者を救う志を持った人たちばかりですから安心ですが。
それにしても万年筆で書いていてインクが切れてボールペンに持ち替えた時のガッカリ感ってハンパねぇな。
今、まったく関係ないけど・・・。

六から6へ

弊社には約半世紀働き続けている印刷機械が2台あります。
創業者である私の祖父は機械工学を学んでいました。
そのため高額であることを考慮せずドイツ製機械の性能に対して純粋に惚れ込み、会社の資金繰りが大変厳しい状況でも購入契約を結んできたそうです。
その都度経理担当だった私の父は大変な思いをしたと当時を振り返っていました。
しかし同時にそのお陰で永年に渡り機械の買い替えを行わずに済んだので、結果的には正解だったとも言っていました。
オフセット印刷機も同様で更新回数も最少で済んだのではないかと思っています。
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約50歳の2台の活版印刷機の操作技術は、昭和6年生まれの職人が平成6年生まれの若者に伝えました。
「もう充分できるようになったで!」と言う職人の声はとても嬉しそうでした。
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バトンを渡す者、受け取る者の笑顔。
繋げることは素晴らしい、繋がることは美しいと思います。

ありがとうございました

僕が生まれて一家は5人になった。
先週その一家は1人になった。
僕が小学2年生の8月31日の夕方に、夏休みの宿題のため川の上流と下流の石を拾いに連れて行かれたこと。
高学年になると神姫バスの座席でどちら側に座るとおふくろを守れるか悩んでいたこと。
保護者懇談会のたびに「言っても聞かない時はどんどん殴ってください」と先生にお墨付きを与えていたこと。
鯨の皮を具材にした粕汁。
コロッケ。
中学入試の日に須磨駅前の店で一緒に食べたオムライス。
先週月曜日の海の日、文具大賞機能部門のグランプリを受賞したことが掲載された雑誌を持って見舞ったのが最後だった。
とうとう誰の死に目にも会えなかった。
土曜日に通夜、日曜日に密葬を終えた今週月曜日、連絡しなかったことを叱られると覚悟して社(やしろ)まで報告に行ったが、おふくろが見舞いに来た叔父に密葬にするので誰にも連絡しないと言っていたらしく、叱られることもなかった。
医師には一切の延命治療を拒んでいた。
最後まで明晰だった。
2015年7月24日(金)14時56分武部はるみ死去。
享年80。
肺気腫だった。
でも最後はそれほど苦しまなかったようだ、恐らく心臓がもたなかったのだろう。
安らかな顔だった。
3人の息子のうち2人に先に逝かれた。
孫にも1人先に逝かれた。
僕はちゃんと見送った。
それだけ。
僕の中にあの人の血が流れていることを心の底から誇りに思う。

2015日本文具大賞

Facebookで私と繋がっていただいている方には「またか!」という感じだと思いますが、こんなことは二度と無いことかもしれませんので後悔しないように書きまくりたいと思います。
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7月8日(水)~10日(金)東京ビッグサイトでの第26回国際文具・紙製品展(ISOT2015)に出展してきました。
今回で3回目になる出展でしたが、過去2回とは比べ物にならないくらい多くの方に神戸派計画・神戸派工場のブースにお立ち寄りいただきました。
ご来場いただきました皆様、本当にありがとうございました。
ゆっくりご案内できなかった方には心よりお詫び申し上げます。
さてその初日に会場にて日本文具大賞の表彰式がありました。
我々の新商品SUITO cleaning paperが第24回日本文具大賞の機能部門で優秀賞を受賞したのです。
万年筆のペン先を美しくするためだけに作られた商品にスポットライトを当てていただいたことに感動すら覚えました。
表彰状をいただいて喜びを噛みしめていた時にグランプリの発表。
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久しぶり、いや初めて驚いて頭が真っ白になりました。
真面目にモノづくりに取り組み続けるように!と励まされていることを感じ、本業の印刷業に対して真摯に向き合い、新しい事業である文具製作にも真正面から取り組んでいく決意を新たにしました。
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しっかり地に足をつけて進んでいきたいと思っています。
たくさんのお祝いのメッセージありがとうございました。
あ、ネットショップ神戸派商店もオープンしました!