「獣のように生きてきた人だったから、自分の死期も分かってたんだな。」
なんていうセリフをどこかで聞いたことがあるような気がする。
ベトナムへ旅立つ前、正式に「遺言書」を作成した。
残る社員へ業務に関することを細かく指示し、将来的なプランについてもできるだけ細かく文書化した。
私はぬくぬく育てられたペットのような生き方をしてきたようで、しっかり無事に帰ってきた。
ま、危機管理ができてるってことで。
「獣のように生きてきた人だったから、自分の死期も分かってたんだな。」
なんていうセリフをどこかで聞いたことがあるような気がする。
ベトナムへ旅立つ前、正式に「遺言書」を作成した。
残る社員へ業務に関することを細かく指示し、将来的なプランについてもできるだけ細かく文書化した。
私はぬくぬく育てられたペットのような生き方をしてきたようで、しっかり無事に帰ってきた。
ま、危機管理ができてるってことで。
ベトナム最終日。
本日は土曜日ということもあり、終日観光。
0時10分発のフライトなので時間はたっぷりとある。
昼食はブンチャという地元の人が愛する食べ物。
これはかなり美味しいものであったが、店の中の様子の写真は載せることができない。というのも観光客が立ち寄らなさそうな店なのでなかなか「えげつない」訳である。
ベトナムで出会った人たち、ベトナムで再会した人たち。本当にありがとうございました。素晴らしい時間でした。心から感謝しています。皆さんにお会いできた縁を大切にし、皆さんに私に出会ってよかったと思われるよう頑張りたいと思います。
そんな私の思いとは関係なくベトナムの町にはバイクが走り回り続ける。
今日も晴れのベトナム。今日は正真正銘雨季に入ったハノイ。
自分が作ったものとか刻んだ歴史とか、自分が強いとか賢いとか。
そんなものは全て馬鹿馬鹿しく思えてしまう。
でも作ろうとか刻もうとか、強くなろうとか賢くなろうとか・・・。
自分に与えられた環境は変えられないが、受け止め方、生かし方は自分次第。
感謝する気持ちも恨む気持ちも自分次第。
羨ましがられるも憐れまれるも自分次第。
な~んとなくそう思った。
当然私は感謝感謝。
そうそう自分の人生を人に委ねてなるものか。恨んでなるものか。
(もちろん視察2件)
ホーチミンGPスタート
各車順調にレースを進めています
そんなレースに目もくれずダナンへ
昼食は美味い
が、パクチーは壁に張り付いてもらう
昼食後1社目日系IT企業を見学
2社目日系企業を見学
3社目現地IT企業・職業訓練学校との情報交換会
ダナンのビーチ
ダナンはいい!!!
でも疲れて写真とキャプションを貼り付けるのが精一杯。
明日はハノイ。腰が痛いがもうそんなことは言ってられねぇ。寝れば元気になる!!
今日は午前中ホーチミン市近郊のソフトウェアパーク内にあるソフトウェア開発会社を見学させていただいた。
日本語の仕様書を読み込みプログラミング、テストまで完全に行われているスキルの高さに驚かされた。
午後からは車で1時間30分以上走り、郊外の大規模な工業団地内にある印刷会社を見学させていただいた。ここは日本の品質基準を満たした印刷物を作成すべく高性能な設備を配置した新工場を整え、素晴らしい環境を作り上げていた。感心しきり。
各社の熱意、努力には大いに刺激を受けた。
それにしてもさすが晴れ男の私。雨季のベトナムにも雨を降らさない。
しかし腰痛ぇ~。
本日初めてベトナムを訪れました。
ホーチミンです。
蒸し暑い!食い物美味い!バイク多い!あとは何も分からん!
うるう年がある関係でまる6年経った今年、7つの曜日が一周してあの日と同じ土曜日の5月1日。
あの日の夕方、誘った社員全員にふられ一緒に飲みに行く相手がいない私に、「今から大阪に飲みに行くけどお前も来るか?」と。「帰りのこと考えたらめんどくさいからええわ。」そう私が答えるのを分かっていたかのように「そうか、ほなお先に、さいなら。」
これが兄貴との最後の会話。会社を出て行く後姿が最後に見せた姿。
私のメイルアドレスは「kenbo」。アドレスを聞かれるたびに恥ずかしいので「ケイイーエヌビィオー」と言う。私にはろくにニックネームが無いが、バイト先の先輩が呼び始めてくれた「けんぼー」が気に入っているのでメイルアドレスにした。
会社でドメインd-wa.co.jpを取得したとき、社員に希望メイルアドレスを提出させた。当時システム管理者だった私は専務だった兄貴にも同様に提出させた。社長だった親父にはメイルアドレスは付与しなかったので、私は兄貴が当然takebeを取るだろうと思っていた。そのため先にkenboを取得し送受信のテスト等を行っていた。ところが兄貴が提出してきたそれは「anny」。ん?アニー?何じゃそれ。尋ねると武部兄だから「あに」→「アニー」→「anny」とのこと。
O型の典型で細かいことは気にせず頓着しない男のようであったが、本当はこんな男だったのだ。
未だに当社のアドレスに兄弟で譲り合うようにした「takebe」は無い。
今年も30人を超える人が今日の兄貴を偲ぶ会に集ってくれる。ありがたいことだ。
41歳で逝った兄貴を42歳の私が偲ぶ。